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挫折感はたくさん味わい、そのたび現実を知るべき、と思う

つまずき、失敗して、
なかなかスムーズにことがはこばない
そういう悔しさは
社会に出る前にたくさん体験しといたほうがいいと思う。
思い返せば
あたしは勉強も中くらい、運動神経は悪い方、
それなのに好奇心でハンドボール部に入っちゃって
入ってすぐ、そのしんどさに後悔したけどもう逃げられない状況で
いやいやながら3年間やるしかなくて。
3年間やったことで疲れて勉強どころじゃなくて
いや、それはただの言い訳。ハンドボール部でレギュラーやりながらも上の高校受けて受かった子はけっこういたから
本人のやる気と集中力、根性の問題だったんだと思う。
それをあたしは自分のいい訳にして
結局、成績の範囲内でどうにか受けられそうという理由でうちから近い高校を受け
そこには受かったからまぁいっかとお気楽に高校生活をした。
だけど
心の中では、ほんとはひとつ上のランクの高校に、もし行ってたらどうだったんだろう?というもう実現不可能な想像をし続けていた。
きっとあたしはひとつ上の高校に行けたとしても校内でランクがびりだったろうし勉強で相当苦労したはず。
実際行った高校は友人も楽しかったし雰囲気もおだやかだったから自分にはこっちが合ってたと思えるけど
もし、という想像をしてしまうのはやっぱり、部活を言い訳に、ちゃんと勉強しなかった後悔が少し残ったからなんだろう。だから
大学は、決めたところにはやいこと取り組んで今度こそあきらめないで挑戦しようと思い続けた。
その結果、無理だろうとまわりからは言われていたのに受かって、
とたんに手のひら返したように先生たちは愛想がよくなり。
そこで得たものは
『目標ははやいうちにたてるべし』
目標をさだめてしまえばそれに向かって頑張るだけ。行動がしやすくなる。宣言したのも早かったから数学の時間に国語の問題集やってても
数学の先生は見て見ぬ振りしてくれた。そこまでやる気ならと大人の目線で応援してくれたんだろな。

期待いっぱいで入った短大。
ワクワク感は1ヶ月もしないうちにくずれた。
授業がとにかく大変だったし、興味のない授業をなんでやらなきゃいけないのか。
あたしはこんなことしたくて京都に来たんじゃないよ、もっと調理関係の授業もあると思ったのに。
合格を一緒に喜んでくれた高校の恩師のところに帰省ついでに会いに行き、そのことを愚痴った。
恩師はどう思ったろう。あきれたろうな。
結局京都暮らしの楽しみはサークルだけに向かった。
あんなに夢見て入った学校だったのに、勉強がしんどかったという理由で愛着を持ってないなんて、なんてやつだと思う。
どんなきっかけにしろ、京都に行けたことで知り合えた人達がいるわけで
その人達との縁はまずはその学校に入学できたことがきっかけだったんだから
自分としては成功だったんだと思う。
学校に籍がなければみんなに会えなかったんだから。お金では買えない、友人たちとの出会いと時間。
親からの学校の授業料と仕送りは
勉強のためのお金というのは名目であって、そういう広い意味での子どもにとっての、いろいろ知るための、いろいろ経験するための
最後の協力支援金だったんだ。
学力があっても経済的に無理で大学に行けなかった父の、憧れと夢がかかってたんだと思う。
だから父の分もいっぱい知っていろんな経験をして
たまに帰ればどうだこうだと京都のことを報告するととても嬉しそうだったんだ。


料理やりたいなら調理師の学校に行った方がいいんだろう、ともういくつか調べて見学にも面接にも行って手続きして
卒業後のプランについて準備万端だったのに、どうしても感覚が受け付けない授業とテストに苦しめられて、卒業が危うくなった。
卒業できないんじゃ、その後の予定が進まなくなる。留年してもう1年こんな授業のために残るなんて耐えられないし
なにより仕送りしてくれてる親に申し訳ない。
追試前に教授のところに、他の、卒業が決まった友人たちと挨拶に行ったとき、友人たちが「ゆかりちゃんは、このあと調理師の学校行って調理師めざすそうですよ。えらいですよね〜」と教授に話してくれてて
あたしはとにかく「追試よろしくお願いします」としかいえず最後の追試を受けた。
ほとんど書けなくて、絶望的な気分で発表の見にいったら60点でぎりぎり合格だった。まじで??

東京の調理師学校に行き、自分の予定どおりに日中は学校で勉強、夕方からは銀座で仕事、夜中に帰宅し寝不足でまた翌朝学校...をくりかえして2ヶ月。疲れも重なり、なにより配属されたのがウエイトレスということで、ここでもまた「あたしはウエイトレスしたくて東京にきたんじゃないよ」と愚痴をためこんだ。
つまらない仕事。そして上司からは注意もされるし、東京の人特有のいじわるというか地方から来た人の純粋さへのからかい、
夏にはもう気持が続かなくてなんとか仕事を辞めたい、それには寮をでなきゃになるから一人暮らしして...とそればかり考えた。
しんどいことから逃げたかったんだと思う。
でも現実は自分の給料で一人暮らしできるほど東京は甘くなく、
経済的に無理で、しぶしぶ寮暮らしを1年続けるためだけに1年契約の仕事全部をどうにかはたした。
途中、短大の恩師から手紙が来た。
『君の予定を、ひとつの化学の教科で狂わせる訳にはいかなかった。がんばってください。』と。
つまり
追試は明らかに点数が足りなくて、留年確定だったのに、友人たちからきかされてた、あたしの今後の予定を考えて
おおめに見て卒業させてくれたということだったんだ...。
感謝した。だけどここでも大人の目線で、やる気満々の学生を見守ってくれたんだとわかった。
やる気は大人を感動させ、協力も仰げるんだとわかった。
学校のほうは卒業し、調理師免許も同時に取得し、
就職活動のときの履歴書には堂々と
「この1年、学校に行きながら資格をとり、同時に夜間は銀座で働いてきた」ことを事実として書いた。
そこで、
1年やりとおしたことが評価されて、というか、
最後まできちんとやれる人なんだなということが履歴書の経歴をみればちゃんとわかってもらえたというか
とんとんと採用が決まった。
ちゃんとした会社に正社員で入ると、待遇もきちんとしてるんだということを知った。
1年契約の仕事を、もしあの夏で辞めてたら。
その後いつも、ちょっとしんどくなったらすぐあきらめて投げ出して言い訳してどうにかしようとすることを繰り返す人になってたろうと思うし、
そのときどきの苦労し合った人脈が今も残ってるなんてありえなかったんだろうし
なにより、職場にあたしを就労生として配属してくれてた専門学校の信用をキズつけたことになり
卒業だってスムーズにいかなかったのかもしれない。
いやなら辞めて自分の収入でどうにかできればいいでしょと自分だけで解決する問題じゃないことを当時の自分はわかってなくて
自分からやると決めて申し込んできたんだからということで、まわりの先生や大人たちが協力してくれて整えてくれた環境なんだから
それはやっぱり最後までやりとおす義務があった。
逃げるに逃げられなかったからだけどそれをやりとおしたから、最後には『ご苦労様、よくがんばったね』と
学校からも職場からも言ってもらえたんだと思うし、今も当時の上司とあのときを懐かしがれるんだと思う。

夢と期待を抱いて飛び込んでみたら想像とはちがってて、こんなはずじゃなかった、しまった、と思う事なんて社会にはいっぱいあるし
それがほとんど。
そのたび、じゃあ今の環境の中だからこそのなにかメリットみつけて楽しみながら同時に今後の自分の役にたつなにかを身につけられないかとか、
今後に続く目標をなにか決めてそれに向かって今すべきことできることはなにかないか、時間と環境を有効に使えないかとか、
今だから出会える人と話をして吸収できることはすべて吸収してやろうとか、
いろんなことを参考に前向きに考えていける力を失敗やつまづきのたびにつけていかないと
なにをやっても『こんなはずじゃなかった』の繰り返しになって言い訳しながら正当化し、逃げる事ばかり考えるようになって
最後までやりとげられない自信のない人間になってしまう。
そしてそういう人への社会での信用は低いし評価もされない。あきらかにそれは
最後まで初志貫徹出来ない奴、であり
まわりの人のことをなんにも考えられない人、なんだから。




 

by yukari  at 10:11
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