人は他人の変化を嫌う傾向がある、んだそうだ。
言われてみればそうなのかもしれない。
でも
環境が変わって
どちらかといえば
変わらざるを得ない側の状況が人生の半分以上続きっぱなしの自分からすると
そんなこと言われても困る、としか言えない。
ケンミンショーを見てていつも思ってた。
地元でずっと育ち過ごし年を重ねてきた人たちの
「これ、普通よね」「え?これがあたりまえじゃないの?」な驚きようを見るたびに
”あたりまえじゃないって。そこだけの習慣っていうだけで、
よそはちがうし、人の価値観もちがうんだということにどうして気がつかないんだろう?”
これだけ情報が入ってくる世の中で、どうしてよそではそうじゃない、他県はそうじゃないという情報だけは
ここ最近まで入ってこなかったのか。その一方で
「これがあたりまえ」と思い、実際、その地ではあたりまえのことであり、
それをふまえて自信をもって行動できる環境の中、たいして疑問ももたずに過ごせてる人をうらやましく感じることもある。
だって
長年のその地での深い人間づきあいやその地での経験から、いっぱいその地限定の常識は学んで身につけていて
こういうときはこうすればいい、という長年の自信のもとで行動できるんだから。誰からも奇異の目で見られることもないんだから。
なにするにも迷いはないはずだ。
迷いがなく動ける、ということがどれほど自分の心の安定と自信につながっているものなのか、
日頃、土地で迷いなく過ごせてる人は、今さら改めて考えることもないだろう。
だって、その地での暮らしすべてが地域の中ではあたりまえのことなんだから。
そしてそれは相手にも求める。
同じように行動してね、と。同じように行動してくれる人がいいな、と。
だから昔から他県から嫁いでくる人より同県の人が常識的にも安心、と思ってしまうのかもしれない。
そこはきっと受け入れる側に自己防衛本能が働くんだろう。あたりまえに動いてくれないことへの不安を抱えたくない、と。
それくらい、環境の変化や人の変化に対してのストレスというものは大きいものなのかもしれない。
でも
行くとこ行くとこですべて一から始まり、これまでの常識がいちいち打ち砕かれ、
迷い、とまどい、新しいことを知り、その土地での「あたりまえ」を知り、その土地にいるあいだは
とにかくどうにかその土地のあたりまえにそって行動しなければと動いてきた自分にとっては
よそを知るまったくの以前のスタートラインの自分にはもう戻れないことも当然の流れではあるのだ。
だけどスタートラインにいる人からすれば
今のあたしは単に「かなり変わってしまった人」でその地の常識からすれば「まったく常識はずれな人」としか思われず
今の自分の思考がこうなった長年の試練の積み重ねなんてほとんど理解もしてもらえないんだろう。
田舎から都会にでた人がたまに田舎に帰るとずいぶんとあか抜けて見えるのは
都会のことを知り、なじもうととりいれようと努力をした結果であって、たんに格好つけてるだけではないということは
都会でとまどった経験がある人じゃないとわからないことだ。
いろんな人と関わり、
いろんな人を知り、
いろんな状況でもみくちゃにされても
自己防衛本能を最大限に働かせながらどうにか自分の精神だけはどこにいても正常に保とうという意識だけはあって
新しい発見の中からいいと思えるものをみつけだし自分の価値観の中にとりいれようとすることで
なんとか喜びを感じようとしてきた。
そのうえで今の自分の常識や価値観が確立されてる。
それをまったくのちゃらになんて、今さらもうできないし、
価値観や常識を原点に戻してしたがってくれと求められても困るばかりだ。
それこそこれまで私がたどってきた道のりをおんなじように今からたどってみれば?と言いたくなり
英語得意でもないのにアメリカで暮らしてすべて英語で交渉ごとも運転免許の取得もやってみれば?と言いたくなり
日本とはいえ誰も知り合いのいない土地転々としながら自力で子育てスタートしてみれば?と言いたくなる。
それのどれもが必死だったし
それをのりこえてやってきた期間のほうが長かったしぶつかってきた試練の数も比べられないほど多かったんだから
ほとんど家と学校の往復メインだったスタート地点の地域の、大人社会の常識はあたしにはないに等しく
人間関係の記憶もぼやけてすでにもうよくわからなくなってるのだって
私にしてみれば当然のことなのに
スタートラインにいる人にはそう思ってはもらえない。
スタートラインどころか
アメリカに行く前に関わった人からしたって
アメリカに行ったあとの私の変化や価値観だってすでに理解できない域だったろうし
北海道に来る前に神奈川で関わった人からしても
北海道に行って何年も経った今の私の変化や価値観は完全に理解してもらえないんだろう。
そう考えると
ちょっと絶望的な気持ちになった。